「なむあみだ仏っ!」(MFコミックス ジーンシリーズ)
漫画:結城あみの/原作:ビジュアルワークス
(http://www.comic-gene.com/comics/319)
「御仏の心に触れるアドベンチャーカードゲーム」と題してリリース前からネット上の話題をかっさらった「なむあみだ仏っ!」。
冥界の審理に関わるとされる十三仏が擬人化……というトンデモ設定に、えっそもそも擬人化って言う? 言うの? と戸惑ったのも記憶に新しい。
そんな「なむあみだ仏っ!」がまさかまさかのコミカライズ。
運営の本気が垣間見える、高速のコミックス発売に気圧されつつ第1巻を読んでみた。
「膨張し続ける煩悩から街を救う」という、バトルものの少年漫画を彷彿とさせる入り出しにドキドキしつつページをめくる。いったいどんな展開が待ち受けているのか……。
そこから6ページ先、早くも事件は起こった。
釈迦如来さまのお気に入りの仏像にバナナの皮が被せられているのだ――。
えっ……なにこれ……?
しかし、どうやら仏たちの住むこの寺(梵納寺というエッジの効いた名称のお寺)ではそんなことは日常茶飯事のようで、読者の戸惑いは華麗にスルーされていく。
そもそも「釈迦如来さまのお気に入りの仏像」という時点で違和感を禁じ得ないが、そんなことで躓いていてはこの先には進めない。
その後の仏さまたちも、ケンカをしたり、牛乳瓶でボウリングをしたり、どこかから雑巾が飛んできたりと忙しい。
そんな騒動をひとつひとつ乗り越えて平穏な日々に戻る十三仏――。
えっ……煩悩から街、救ってる……?
と、最初こそそんな疑問を抱きもしたが、続くドタバタに「仏さまたちが楽しそうだからまあいっか☆」と次第に違和感が仕事をしなくなっていく。
やがて、ページをめくるごとに「次はどんな事件が……」とワクワクしている自分に気付く。
とにもかくにも、「なむあみだ仏っ!」では、釈迦如来、阿弥陀如来、観音菩薩……と、誰でも一度は耳にしたことがあるであろう名前の仏さまたちが、どういうわけか人間(いずれも美青年、美少年)の姿になり、人の世を舞台に生活をしている。
全員が種類の違うイケメンでありつつ、みな素晴らしくキャラが立っていることが「なむあみだ仏っ!」の最たる魅力だろう。
さらに着目すべきは、本来の仏さまから着想したと思わしき様相や、知る人ぞ知る仏さまトリビアが、コミックスのいたるところにちりばめられている点だ。
「十三仏がモチーフ」となると何やら難しい話のような印象を受けていたが、蓋を開けてみれば、愉快に楽しく日常を謳歌する仏さまたちに、これ以上ないほどの親しみやすさを感じ、あまり聞き覚えのない仏さまたちの名前までもいつの間にやらすべて覚えてしまった。
どの仏さまにどんな特徴があって……、この仏さまとあの仏さまはこんな関係で……などの情報は、「なむあみだ仏っ!」に触れなければ、一生知り得なかったかもしれない。
彼らのふとした会話の中にも「もしかしたらこの言葉ややりとりにも意味が?」など深読みを始めてしまえば、もう「なむあみワールド」からは抜け出せないだろう。
それほどまでに楽しく、どの仏さまも違わず愛らしく、いきいきと魅力的に描かれている。
余談だが、ゲームとコミックスでそれぞれ「なむあみだ仏っ!」に触れてから一度、お寺に足を運ぶ機会があった。
とても有名でとても大きなそのお寺には、たくさんの仏像が置かれていた。
こちらはお不動さん、あちらは阿弥陀さま、観音さま……あ、あれは……。
親切なお寺の方が声をかけてくださる。
「お薬師さんですよ」
「ああ、薬壺、持ってらっしゃいますもん、ね……」
なんということでしょう。
恥ずかしながら各仏像に違いがあることさえ理解していなかった私が、一目見てそれがどの仏さまであるかが分かるのだ。
何この感覚。
怖い。
めっちゃ怖い。
が、しかし
楽しい。
未開のジャンルに興味を抱いたとき、それまで何も知らなかった自分に知識として情報を入れ込んでいく作業が一番面白いと私は思っている。
仏像を見ながら「楽しい」と感じてしまった自分は、今まさに、「なむあみだ仏っ!」を介して「仏さま」そのものの世界に足を踏み入れようとしているのではないか。
ちなみに、私はコミックス第1巻の帯に書かれた「どうしてこうなった!!」というフレーズがとても好きだ。
「仏さまが擬人化」というぶっ飛んだ設定も、仏さまにキャラクターとしての愛着を感じてしまう背徳的な感覚も、ある種「萌え」というものからはほど遠い存在である仏さまたちに萌えてしまっている言い逃れの出来ないこの事実も、すべてはこの一言に集約される。
どうしてこうなった!!
「なむあみだ仏っ!」は、これまで仏さまの世界に触れてこなかった人をも引きずり込む、蓮華座が浮かぶ沼のような吸引力を持った作品である。
「どうしてこうなった」かは分からないが、私が彼らに抱くこの感情が件の煩悩であることは確かだ。
(文/三崎いさ)